コロナ禍でライブが体感できない音楽ファンへ、またライブハウスや音楽関係者へのメッセージなど
ライブハウスはライブアーティスト、そしてそのアーティストに関わる全てのスタッフにとって毎回命懸けの闘いの場所だし、エンタメやミュージックシーンに於ける鉱山の様な場所だと思っています。
そして、ライブやコンサートはファンにとっては生きがいであり、呼吸であり、希望です。
クソな満員電車に揺られても、日々のストレスに泣いても、それでも何とか前を向けるのは、その日々の先にライブという居場所が待っているからでは無いでしょうか?
無くなっていいわけないだろ。
どれだけSNSがバズろうが、どれだけ配信でカッコつけようが、最後には生のライブの前に平伏す事になる。それらのコンテンツは永遠に銀メダルのままだろう。
これ以上、この正しくも狂ったままの風潮に指咥えて待ってるだけでは何も変わらない。
お利口さんのまま死ねない。
俺は一抜けて、戦わせていただきます。
存分に遊ばせていただく。
ウイルスの倍の倍の倍、希望をばら撒いてやる。黙ったまま不戦敗なんてムカッ腹立って仕方ねえよな。
さあ、未来こじ開けに行こうぜ。
みんなでライブハウスに帰ろう。
名古屋から上京して、当時K2の店長だった島袋さんに拾ってもらい、デビューするまでずっとバイトさせてもらってました。
そこからASH DA HEROとして活動を始める際、最初に選んだステージがK2でした。
K2の当時の店長の山田さんにお願いして、当日告知の無名の前座扱いで出演させてもらい、その夜からASH DA HEROは始まりました。
その後、色んなステージを経験しながら、時々K2に帰ってきて、いつしか満員で人が溢れかえる様になりました。
僕にとってK2は始まりの場所で、そして僕のファンのみんなにとってもとても大切な思い出の場所です。大阪RUIDOもそう。
とても悔しいし、やるせない気持ちでいっぱいですが、本当に沢山の素晴らしい思い出を頂きました。ありがとうございました!
思い出は消えない。その全てが色づいたまま今日も僕を走らせてくれる。忘れない。
ASH DA HERO
https://ashdahero.com
初めてライブハウスのステージに立った時のお気持ちなど
15歳の時、成り行きで歌う事になって愛知の刈谷にあったダイナーのステージに立ちました。5cmくらいの高さのステージ。
快感でしたね。
生きてきて一番気持ち良かった。
コレだ。と思ったのを今も覚えてます。